昨日、お通夜にいってきました。

一人暮らしのかたのお通夜とは思えないような、大変な人数のお通夜でした。

本人が生前教育にも力をそそがれて、講演や講義でお世話されていた千葉大学の関係者のかたや、車いすのかた、杖をお持ちの方であふれていて、皆さんのその様子をみながら、本人の声が聞こえるようでした。

私は、長いその方の人生の最後の10カ月のかかわりでした。

つらい時、友人の方々と会う予定があるときは、なるべく、その場面で本人が本人らしく、ふるまえるように、薬の調整や動きやすいように浮腫のひどい足のマッサージ、処置法の工夫など行ってきました。

時には朝5時に訪問して、準備したこともあります。

でも、私は、友人の方々の中での患者さんの様子は見ていないので、友人やボランティアの方々がおっしゃる本人の様子を新鮮にきいていました。

どんなに、つらくても、出かける前には、きりっとされるその様子に、患者さんがお持ちの生命の力、大変な人生を生きてこられたかたがもつエネルギーを感じ、頭がさがるおもいでした。

息を引き取られるまでの10カ月間はその方の人生の集約のように、いろんなことがおき、いろんな場面でのその方の判断、行動を私自身一人の人間として、学ぶことができました。

遺影の写真を生前にご自分で準備されていたその写真のお顔を拝見しながら、あなたはどんな風に生きていますか、と問われているように感じました。

 

あすか山訪問看護ステーションでは、スタッフがお通夜に喪服をきてお伺いします。

そのよいところは、大勢のその方の人生に関わった方のなかで、訪問看護もその一人なのだということ、そして、人生のなかでの、医療の立ち位置をまなべることです。

とかく、医療・看護は横暴で本人に生き方までも変える強制力をもち、自分たちの知っている「患者」の立ち場のその人しかしりません。

長い人生でその方が果たしていた役割、患者になる前のその方らしさなどをしり、私たちの横暴な偏見、自分がその方を看取ったというおごった考え、勘違いをただすために私は、お通夜には行くべきとおもっています。

お通夜でお線香をあげ、振り向くと、そこに長い間、通って介護をされていた妹さんがおられました。

お互い目と目があい、本当にごくろうさまでしたといった言葉にはならない思いがあふれ、涙がにじみました。

お通夜に出席し、悲しみの中にいる自分も癒されていると感じました。

あすから、また、新しい患者さんへ自分の全力をだしてケアできるエネルギーのチャージを行い、新たな出会いのなかで、私の看護職としてのすべてと、人間としてのすべてをだして「引き受ける覚悟の看護」を提供したいと思いました。