今日は、私が数カ月前に出会った神経難病の方が、参加したいと希望された会がありました。

私が初回で訪問したとき、つらそうな表情をされていて、私を見つめる瞳の中にスピリチュアルペインを感じました。心の中の涙を感じました。何か私に伝えたいことがあるような切ない瞳のその方は、初めてお伺いした私をじっと見つめていました。

私も心の中で「どうしたんですか?なにが心を占めているんですか?」と問いかけました。

フィジカルアセスメントのため「お体を見ますね」と説明し、そっと呼吸筋に触れた途端、びっくりしました。肋間筋がこれまで触ったことが無い硬さ、えっと患者さんの顔を再度みました。

これは、つらいね・・と心でつぶやき、もう一度全身に触れると、便も硬く、横隔膜を押し上げています。先週まで数年間入っていた別の訪問看護ステーションから、申し送りもなく急にバトンタッチした経過を思い出し、悲しくなりました。

人工呼吸器は規則正しく、決まった酸素を送っていますが、患者さんの体はおそらく、呼吸器設定したときより硬く変化したのではないのでしょうか。書類を再度確認すると、気胸の既往がありました。

お体のつらさに涙が出そうになりながら、部屋を見渡すと、車いすにのった患者さんの素敵な笑顔、おしゃれなその姿とたくさんの友人からの絵手紙、お話を聞くと、外に出るのがとても好きだった方と知りました。

もう一度、患者さんのお顔を拝見しました。人工呼吸器を装着したこの数年は外へはもちろん、このベッドから離れていないと文字版でおっしゃいました。

お顔の表情も昔の写真と違います。表情筋の低下は、病気のためではなくケア不足であると判断、暖かい温シップのあと、オイルマッサージで表情筋をゆっくりほぐしました。呼吸筋は毎日ほぐしに訪問しました。

2回目の訪問のとき、車いすに乗ってみましょう、と話す私に、びっくりした表情をされましたが、すぐに素敵な笑顔になりました。

家族は、びっくり、さっさと準備をし数分後に家族と私で車いすにのせ、隣のリビングに行きました。

患者さんは笑顔で部屋を見つめていました。次の訪問の時、再度車いすに乗り、車いすでケアをしました。

その時、本人は「12月18日の会に行きたい」と話されたのでした。

呼吸器装着前は、よく行っていたことを家族が懐かしそうに、海外も一緒に行ったことなど話されていました。

次の訪問の時、担当者となる看護師と同行したので、天気がよく、外へ行きましょう、と誘い、緑豊かな家の近辺を散歩しました。さらに、素敵な笑顔になりました。

目標ができて、心の涙は少し少なくなるかしら、と私の心も少しほっとしました。

そして、信頼のできる担当者へバトンタッチし、私は、患者さんの訪問から外れました。

そのあとも、ずっと私の心の中にこの患者さんはいて、今日のこの日のことが頭から離れませんでした。

その後の私は、訪問看護の回数が減り、調査研究や、会議、委員会、講演、講義、執筆などに追われるようになりました。患者さんから離れたところでの役割が次々、予定にわりこんできました。

患者さんに寄り添えず、私のストレスは絶頂になりましたが、役割責任を果たすことに全時間をつかい、早く仕事を終えれば、訪問の時間が取れるかも、と必死でした。今日も、締切の仕事はありましたが、睡眠時間を減らせばいいや、と患者さんが数年ぶりに出席される予定のこの会に出席しました。

どんな服をきて、どんな表情で参加されているか、とても楽しみで急いで行きました。

会場をさがしましたが、患者さんの姿がありません。

家族が出席されていました。今日は、朝、熱が出てこれなかったとのことでした。

私は帰りの車の中で、涙が止まりませんでした。なにが悲しかったのか。

寄り添いたかった患者さんに寄り添わなかったことがこんなにつらいと初めて実感し、自分の仕事の役割の理解が間違いであったことを悟りました。

患者さんの今のこころの中も分からないまま、私の気持ちだけで、会いたい気持ちだけで会に来てしまいました。

この数カ月、自分が気になって仕方なかった患者さんに、一人の看護師として少しでも関われなかったことに対して、自分に腹を立てていました。

私は、大きな間違いを犯すところでした。

私が訪問看護師としてできることはたかが知れているのです。残された人生の中で私は、誠実に患者さん一人一人に寄り添い、その中でしか私自身の発達はないのです。

仕事の仕方を変えようと決心しました。

                     平原