さまざまな患者さまから考えさせられ、学んでいます。

わたしは、いつも、その心の内のことを聞く時、いつか、もしかしたら私も同じ病気になるかもしれないと感じながらお話を聞きます。

そのことを必ず伝えて、お話を聞きます。

「なぜ、自分がこんな病気になったのか」「脳梗塞などなら、よかったのに、この病気は自分が壊れてしまうような気がする」と病気に対するイメージが、その方を苦しめていることがあります。

そして、以前の自分と比較して、できなくなったことを数えて、これからなくしていくだろう未来のことを考えておられます。

その、心の悲しみをずっとお聞きして、自分なら、どんな風になるのか、この体の変化とどう向き合うのかを考えました。

 

人は、生まれてから、親や、学校の教師に、自分はどんな人間なのか理解できるために教育を受けます。さまざまな体験をどのように感じ、知識を持ち、経験を英知に変え、動物から、人間として生きていくためのすべを身につけます。つまり自己像を得ていく過程が教育なのです。

自分自身を知って初めて他人とのかかわりかた、自分の感情の処理のしかた、仕事や人生の選択ができると思います。

自分は頑張ってこれくらい結果が出せる人間、勉強はこれくらいのレベル、ひとから好かれるタイプ、頑張ってしまい、疲れるタイプ、こんなひとは許せないタイプなどの自己像でしょうか。

それが、崩れてしまうのです。何歳になったら、こんな風に仕事をして、退職したら、旅行に行こう、孫ができ自分の人生を振り返り何か伝える役割をという自分の未来像も同時に崩れます。・・・

自己像が崩れたのなら、もう一度、自分が幼いころから成長してきた過程を再現し、自分で自分を教育し、自己像を立て直したらよいのではないでしょうか。

私は、職業柄さまざまな障害をお持ちの方と接する機会があります。一見体中がくねくねして、口がしまらない様子に、知らない人はその人のことを勘違いされることがあります。でも、わたしはその方の考えや、その人らしさが素敵と知っているし、難病だったり、事故による障害だったりして車いす生活のひとであっても、その人の持っている世界は広く、尊敬できると感じています。そんな機会を得て生きていることを感謝しています。それは、見た目での病気にたいする偏見を少なくしてくれます。

テレビで、イチローがかっこよく尊敬できると同様に、車いすで体が動かなくても一人暮らしをしているひともカッコよく、尊敬できるのです。

もし、自分が同じような状況になった時に、目標となるべく人がいて、イメージできることは、不自由な体で生きていくときの自己像の立て直しに大変助けになります。

自分の考えが状況によって、なるべくさまざまな形に変われること、気持ちの立て直し、自己像の作り変えができることは、今、現在、どのように生きるか、偏見を持たない考え方をもつかにかかっています。偏見とは、無知から生まれます。

偏見がなるべくない自分、偏見を持っている自分を知りそれをなくす努力、現実の社会の実態や真実を学ぶ姿勢が必要と思います。

誰にも可能性のある病気、とくに難病になった場合、自分ならどのような葛藤をもち、それを乗り越えていけるか、つねに私はそのことを考えているようにおもいます。

患者さまから、切実な声を聞く機会が多いからかもしれません。

私は今病気のかたを支える立場ですが、いつ、支えられる立場になるかもしれません。

そう思っているから、簡単に「今、余裕がないから、お断りしましょう」という言葉に怒りを感じてしまうのでしょう。どんな状況で、訪問看護を必要としているか、どんな気持ちでその返事を待っているかと思うだけで、私は、せつない気持ちになります。まるで、その「断る」という言葉を自分に言われたように感じます。そして、傷つきます。

心細い、自己像との葛藤や24時間の身体の苦痛に悩んでいる患者さまに手を差し伸べれないどうしようもない状況とは一体どんな状況でしょう。

難病の患者さまの涙の中の声を聞き、今日も、自分の心の深いところにいつもの問いかけをしました。

自分は、どのように生きていくのか、その、力はあるのか、患者さまと一緒に歩む覚悟をもっているか。向き合って、逃げれない患者さまや家族と同様、私もそのつらさをすこし引き受けたいと思います。