患者さんの多くは、これまで高額な治療をさんざん行って、大学病院の医師と数年にわたり戦ってきた方が多いです。

患者さんは、どれだけ異常な部分が変化したか、今後、どのように悪化する可能性があるか、という話ばかり聞いてきこられました。

しかし、転移が判明、治療は中止、戦いの敗北感を感じている患者さんの心は、あきらめと怒りでいっぱいです。

私は、いつも違和感を感じます。

看護の役割は、生命力を引き出し、最大限のそのかたの力が発揮される、そのことが、心に影響をし生きるちからにつながっていく、それは、たとえ、がんで予後が厳しくても希望や自分がいきていくという、人間の根本の力を引き出すことにつながる・・。

看護はその人の異常に目をやるのではなく、異常の部分はもちろん理解しながらも、正常な部分がどのくらいあり、機能はどれくらい引き出せるか、そのことが生活の自立範囲にどれくらい影響するかを医学的知識を利用して診断します

病院のなかでも看護の役割はおなじだと思います。

医師が異常の診断と治療、看護師が正常の診断とケア、その両方の説明やケアをうけて患者さんははじめて、自分の全体の状況を理解し、

異常や障害をもちながらどう生きていけばいいか自己決定できるのです。

訪問看護を開始するとき私は患者さんに自分の全体の状況を把握してもらいたいと考えて、説明をします

がんなどの検査結果は繰り返し説明をうけておられますが、

自分の自立神経の正常な働きのようす、正常な手足の機能、正常なホルモンのちから、正常な免疫力、それらがどのように体の平衡をたもっているか、保とうとしているかの説明は受けたことがないとおっしゃいます。

正常なからだの力は、自分の考え一つで引き出されていき、異常な部分をカバーしてくれる力も持っています。

日本の医療は正常な機能をきちんと測定することにおかねをかけない仕組みになっています

決して病気の予測をしていないわけではないですが、患者さんの知識があまりに、医師中心、異常中心、治療中心に偏っており、治療を中止したことが、いのちの終わりのような、自分の体を自分があきらめてしまうような

錯覚におちいってしまう今の病院の体制に疑問と怒りをおぼえます。

今日、患者さんと2時間近く、ゆっくり話し、患者さんのこころの傷にもふれ、固まってしまったあきらめに寄り添い、私の気持ちもつたえました。

患者さんにとって病気となった体は、自分ではどうしようもなく、医師しかコントロールできないと錯覚していることをゆっくりと、自分のからだであり、自分でコントロールでき、こころも体も自分のものという気持ちになってほしいと伝えました

そうなってはじめて、自分で生きていけると思えるのだと思います

ときに家族はそんなあきらめた患者さんにいらだち、どうして、もっっとがんばらないのか、ダメな気持ちでいるのか、という言葉が、本人に生きてほしいという気持ちの表現となったりします

自信を失って自分の異常な部分が自分だと思い込んでいる患者さんには、もう、何をしても、その異常な部分が消えることはなく広がっていくだけなのに、なぜがんばるのか、なにをがんばればいいのか、という気持ちで、家族との溝ができてしまいます

 

看護の本来の「体の正常さの診断」を行うことは患者さんの自分の状況の全体を理解する権利を守るためにも必要です

                                           平原